子どもたちの未来

今回のエントリーは、大阪西区で幼児2人がネグレクトされ、死亡してしまった件について書きます。


この週末、奥さんとこのことについて少し話をしたり記事を見たりしたので、その感想を書いておく。


まず、当たり前だが、子どもに何の罪もない。
養育を放棄したのは、親だが、この親を責める前に、この子ども二人を救う方法はもっとあったんじゃないだろうか。


育児を進めていく上で、最も大切なことは、母親への精神的・経済的支援と指導だ。
今回は、支援・指導がなぜできなかったのか?ということを強く感じた。


肉親はもう一度同居するなどして支援しなかったのか。
行政がもっと強く介入できなかったのか。
元夫はどれくらい子どもたちを支援していたのか。
一人では養育は無理と思ったら、なぜ施設に預けるなどしなかったのか。


昔(今もかもしれないが)赤ちゃんポストというものがあって、それに対して、無責任だとかあんなものを設置するからいけない、とかいう批判があったが、今回のような件があると、もっと早く施設に預けて置けば、少なくとも子どもの命は救えたのではないか。


この母親への批判は仕方ないことだと思うが、そこにばかり目が行くと本質的な問題が逃げていくような気がする。


大切なことは、子どもたちの未来だ。
未来は、命がないと開けない。
もっと子どもたちが社会で生きていく上での、支援を考えていく必要がある。
母親だけの責任にしておいたら、未来はない。


血縁・地縁が弱まり、家族や地域の力がない現在において、子育てすることは、様々なサポートを頼っていくしかない。


僕は、今一人の子どもを奥さんと二人で育てているが、二人でも大変だ。
もし一人きりで、二人の幼子を育てろ、と言われたら、その大変さを知っているだけに、無理です、と潔く言うだろう。
そして、自分の親や公的・私的なサポートを頼って、自分にできるだけの子育てをする。周りの人に感謝しながら。

※誤解されては困りますが、子育ては、ものすごく楽しいことです。一緒にいたらとても面白いことがたくさんあって、すごく感動することがある。だからやっていけるんだけどね。


育児をしたことのないおっさんたちは、よく母親の我慢が足りないとか、母親なら何とかしろとか言うが、おまえら一度やってみろと言いたい。


仕事みたいに能動的なものじゃない。
ものすごく受動的で、神経を使うものだ。
子どもは危ないことを平気でするので、様子を見ているだけでも、ものすごく神経を使って疲れるし、理不尽な要求をものすごくしてくるので、それに付き合ってやるだけでも大変。
肉体的にも精神的にも「まぶりつかれる」感じです。
僕は、子どもの相手をするのが結構得意な方だと思っているが、6時間が限界。
それ以上は、ちょっとしたアパシー(無感動)がやってきてしまう。
これは精神的な防御じゃないかと思うが、これ以上一方的にやられると、精神が壊れる、と判断するのではないか。


件の母親は、なんとか一人で頑張ろうとして、精神が壊れたんじゃないかと思う。


もちろん、結果として、やってしまったことは、許されないし、非道だ。


しかし、この母親を責めても、子どもの命は帰ってこない。


何が大切なのか。
母親を批判している人は、子どもたちの未来はどうすれば開けると考えているのだろうか。